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坂本 龍一(さかもと りゅういち Sakamoto Ryūichi1952年1月17日 - )は日本の音楽家作曲編曲音楽プロデューサーキーボーディスト

略歴 編集

音楽家として活躍する他、映画俳優としても活動歴がある。クラシック音楽をベースに、民俗音楽現代音楽にも造詣が深く、多様な作品を発表している。東京芸術大学在学中からスタジオミュージシャンとして活動を開始。1970年代後半よりソロとして活動する一方、音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラYMO)」のメンバーとして広く知られ、人気音楽家となる。映画音楽の作曲も活発に行っており、映画「ラストエンペラー」では日本人初のアカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞している。

音楽活動の傍ら、いくつかの映画や映像作品に俳優として出演した他、近年は各メディアで環境問題や平和問題について数多く発言している。またマクロビオティックの実践者でもある。以前はベジタリアンであったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折。「教授」とあだ名される(後述)。左利き。血液型はB型。歌手坂本美雨はシンガーソングライターの矢野顕子との間に生まれた、坂本にとっては次女。

来歴 編集

1952年東京都中野区に生まれる。父は編集者で、三島由紀夫野間宏などを担当した坂本一亀。母は帽子デザイナー。3歳からピアノを習いはじめる。自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団において作った「うさぎのうた」が、最初の作曲。10歳で東京芸術大学の松本民之助に師事し作曲を学び始める。

1959年から東京都世田谷区給田に育つ。世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校を経て、1970年東京都立新宿高等学校を卒業(塩崎恭久と同期)。新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。また学生運動にのめり込む。高校一年生の時、作曲の腕前に関して、高校の先輩の池辺晋一郎から「今でも(東京芸大に)十分受かる」と太鼓判を押された(当時の東京芸大作曲科の難易度は現在より遙かに高かった)。芸大受験に失敗した場合は、父の母校である日本大学芸術学部に進むことを考えていた。その理由は「当時の日大全共闘は一番ぶっちぎれていたから」。1970年東京芸術大学入学。大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受けており、現在の作風にも影響している。ただし小泉は作曲はしなかったので、作曲技法上の影響を受けているというわけではない。在学時、一年ほど現代音楽家の三善晃に学んでいる。渋谷で開かれる高橋悠治の勉強会に高校・大学を通して顔を出している。在学中に電子音楽に出会う。1974年東京芸術大学音楽学部作曲科を経て、1976年大学院音響研究科修士課程を修了。

1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。スタジオミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。以降、りりィバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した他、初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレ-ド」など)、大瀧詠一のアルバム『Niagara Triangle vol.1』などにキーボードとして参加。この時期を、後に坂本はアルバイト時代と呼んでいる。

1978年細野晴臣高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(以下YMOと表記)を結成、活動を開始する。同時期、坂本初のソロアルバム千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。またこの年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加している。翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美矢野顕子小原礼村上秀一本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトカクトウギセッションでの活動を行う。同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。

YMOとしての活動の傍ら、1981年よりNHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていた(この番組にテープを送っていたリスナーで後にメジャーデビューしたのが、ジュラン、テイトウワ槙原敬之らであり、またステッピン・イントゥ・エイジアでラップを担当した浅野智子もこの特集がきっかけで、同曲のレコーディングに参加することになった。ここで流された曲の一部が後に「DEMO TAPE-1」としてCD化されている)。1982年には、RCサクセション忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。資生堂82春のキャンペーンソングとしてヒットする。TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した。またこの年、矢野顕子と結婚している。

1983年公開の映画戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演。出演の条件として音楽を担当した。同作がカンヌ国際映画祭に出品された際に、映画監督ベルナルド・ベルトルッチと出会い、これが映画『ラストエンペラー』への布石となる。この年、デヴィッド・シルヴィアンと組んでシングル「禁じられた色彩」をリリースした。同年、YMOは「散開」(解散)する。

1984年矢野顕子らとMIDIレコードを設立。レーベル「school」を立ち上げる。1986年には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。翌1987年、映画『ラストエンペラー』公開。坂本は甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、コン・スーとともに担当。これによりゴールデングローブ賞を日本人で初めて受賞し、アカデミー賞作曲賞も受賞する。以後、映画音楽作家としての地位を確立する。ちなみに、溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りの為に、撮影中は一言も口を利かなかったという(夜のヒットスタジオより)。

1989年、海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍する(しかしセールス的な成功を収めることはなかった。)EMIのヴァージン・レコード買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任にともなって契約を解消。1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲、自らも会場でオーケストラを指揮した。依頼料は1ドル。このときの楽曲は若干アレンジされ、後に「El Mar Mediterrani」として発表された。高橋幸宏によると「非常に嫌々やっていた」。1993年、YMO「再生」(再結成)。アルバム『テクノドン』を発表し、6月には東京ドームにて2日間だけのライブを行う。

1994年には契約地域を分割し,日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。日本国内での活動を活発にした。日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。1995年ダウンタウンの変名音楽ユニット「GEISHA GIRLS」をプロデュース。以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコントに出演。アホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せ、視聴者の度肝を抜いた。

1998年、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約,日本ではワーナーミュージック・ジャパンに移籍。翌1999年、製薬会社三共CMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングルウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。また、自身初となるオペラLIFE』を公演。この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組「おしゃれカンケイ」において愛人とその女性との間にいる子供の存在を認め、坂本美雨から「お母さん(矢野顕子)のほかに好きな女性がいるのか」と問い詰められたエピソードも披露している。また「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供がいることも明かしている(4人のうち1人は矢野顕子の連れ子で、坂本と養子縁組はしているが血縁関係はない)。2001年TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースした。2003年には、この年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング、「the land song-music for Artelligent City」を発表。

2006年11月6日エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。この年、矢野顕子と離婚。2007年3月10日5月28日、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センターにて展示。9月15日11月4日、東京のNTTインターコミュニケーション・センターでも展示。3月10日にはオープニング・コンサートを行った。またこの年は細野晴臣高橋幸宏との活動が活発になる。2月にキリンラガービールのCMにYMOとして出演。同時に「RYDEEN 79/07」をリリース。5月19日には「ヒューマン・オーディオ・スポンジ」(HAS)としてチャリティーライブを行う。さらに7月7日には「ライブ・アース」にYMOとして出演。8月22日には「HASYMO(ハシモ)」名義で新曲「RESCUE」をリリースする。


オリエンタリズムを感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。これまでに映画やCMにも多数出演している。

社会活動 編集

政治的発言が多く、高校時代には学生運動に関与した。大学時代には武満徹を中傷する過激なビラを配ったこともあった。これについて坂本は、武満は当時音楽界の権力の象徴だったからと武満の没後語っている。中傷された武満は、逆に坂本に「このビラ撒いたの君?」と言い寄り興味を覚え、話をするきっかけになった。なお、坂本は武満の没後、武満が晩年完成を目指していたオペラからインスパイアされた曲「Opus」を作曲する(アルバム『BTTB』所収)。さらには自作のオペラ『LIFE』を完成させるなど、武満のことを少なからず意識していた。概して、若い頃は退廃的な考えを持っていたようだが、野口晴哉の著書『風邪の効用』等の影響で、健康的、生命的な考えへと変わっていった。作家思想家など知識人との交流も深く、作品に影響が及ぶこともしばしばである(#関連項目参照)。大江光に対する批判など、音楽のクオリティーそのものを批評するのではない社会の姿勢を批判したにも関わらず,光が反論できないことを利用した上で行われる歯に衣を着せぬ言動であると誤解され物議を醸すことも多い。喜多郎についても「(同じように海外での評価が高い事について)外人ウケを狙っている」と辛辣なコメントをしている。

1997年ごろから日本における音楽著作権の取り扱いについて、JASRACが独占して管理すること、および権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるようJASRACおよび文化庁に対して働きかけを行った[1]MAA(メディア・アーティスト・アソシエイション)設立。1999年制作のオペラ『LIFE』あたりから環境平和問題に言及することも多くなり、地雷除去活動を支援するためのチャリティーソングとしてGLAYMr.ChildrenDREAMS COME TRUEDJ KRUSHらを迎えて制作した『ZERO LANDMINE[2]アメリカ同時多発テロ事件をきっかけとした論考集『非戦』を発表している。しかし、この事件後に月刊誌上において「次にテロが起きたときに逃げることの出来るようにレンジローバーを購入した」と語り顰蹙を買った。

2004年には音楽評論家・高橋健太郎やピーター・バラカンらの呼びかけに応じて共同声明「私たち音楽関係者は、著作権法改定による輸入CD規制に反対します」に名を連ね、国会で審議されていたレコード輸入権に反対を表明した[3]

2006年2月には、PSE問題に絡み、松武秀樹椎名和夫とともに2006年4月に本格的に施行される電気用品安全法(PSE法)に反対する署名を募集[4]。経済産業省がマークなしの販売を条件付きながら認めるなど、一定の成果を得た。また、同年5月にはShing02en:Christian Fenneszらとともに青森県六ヶ所村の核再処理施設に関する危険性を訴えるプロジェクトSTOP ROKKASHOを始めた[5]

音楽活動 編集

  • 自身も認め、かつて矢野顕子にも皮肉られたが、鍵盤楽器の腕前はさほど上手いものではない。例えば「ライディーン」のPVでは合理的に使えるポジションで小指を使わず、1から4への不自然な替え指がある。これは坂本に限らず、例えば宮川泰なども奏法は我流で、さほど重要なことではない。一方で加藤登紀子が坂本のピアノの演奏技術に感嘆し、それを本人に伝えた際「18歳の頃の僕はもっとすごかった」とも発言している。
  • 現代音楽への進出は、原田力男の推薦にもかかわらず成功しなかった。現代音楽界を狭い世界と捉え、その中で活動することを嫌ったとの本人コメントあり。
  • 社会的成功を確実にした後、神奈川県内のクラシック音楽専用のホールで個展を行ったが、そのときの作風は20世紀前半の近代和声の段階に「意図的に」留まっている。
  • YMO散開後の1984年題名のない音楽会においてオーケストラを用いて行われたニューアルバム『音楽図鑑』のプロモーションで用いた技法は1960年代に一世を風靡したフランク・ステラのような単色のミニマリズムではなく、時代遅れのものとされオーケストラの濁った音で奏でられるポスト・ミニマルであった。
  • 学生時代にヤニス・クセナキスの作曲法を取り入れようとしたが、数学ができなくて挫折した。太田出版から出された「坂本龍一・音楽史」に、その試行の膨大なメモが掲載されている。
  • 多くの著書でジェルジ・リゲティオリヴィエ・メシアンに言及しているが、自身の音楽語法はフィリップ・グラスやトム・ジョンソンのような簡明なパターンの羅列を好んでいる。
  • J-WAVEにて2004年放送の番組「ゆく都市くる都市・新春放談」では、細野晴臣、高橋幸宏との対談で、リズム隊出身の両者に対し、坂本自身はリズムトラックの構成にコンプレックスがあると告白した。対して細野は「教授の作品を聴いて特にリズムが弱いと思った事は無かった」と語り、少々意外な発言だったようである。
  • コンサートではほとんど年齢制限を設けたことは無く「0歳児でも入場可」をポリシーとしている。しかし2007年5月12日「坂本龍一プロデュース公演/ロハスクラシック・コンサート2007」の会場となったbunkamuraオーチャードホールでは、子供の泣き声が数か所から上がり、第二部開演前に坂本から「0歳児でもOKというのをポリシーにしていますが、純粋に音楽を楽しみに来ている方もおられるでしょうから、常識的なところで、例えばロビーへ行ってあやすなど臨機応変に判断をしてください」と照れながらのアナウンスがあった。この時ファンの間で「まさか教授から『常識』という言葉が発せられるとは」といった種のどよめきが起こった。

「教授」という愛称 編集

  • 一般に「教授」という愛称で広く親しまれているが、これは高橋幸宏が付けたものである。
    • 高橋がテレビ番組で語ったところによると、坂本と高橋が初めて会った時、坂本が東京芸術大学の大学院生だと聞いた高橋が驚いて、「大学教授にでもなるの?」と尋ねたことがきっかけ。アスペクト刊「イエロー・マジック・オーケストラ」には坂本が大学院生であることを知った高橋が「じゃあ、プロフェッサーだから『教授』」と名付けたとある。
    • 坂本は修士課程を修了しているが、大学教授ではない。
  • 「教授」と呼ばれる前、当時の坂本の風貌が野球漫画「あぶさん」の主人公に似ていることから「あぶ」と呼ばれていた。

ディスコグラフィー編集

オリジナルアルバム編集

シングル編集

ミニ・アルバム編集

  • 「オネアミスの翼〈イメージスケッチ〉」 (1987年
  • 「Music For Yoji Yamamoto Collection 1995」 (1996年

ベスト・アルバム 編集

リミックス・アルバム編集

ライヴ・アルバム編集

コンピレーション・アルバム編集

  • 1996」 (1996年
  • GEM」 (2002年)※非売品(2002年に発売されたベストアルバム「US」「UF」「CM/TV」の初回盤のみの特典として、応募券3枚を集め送るともらえた”坂本龍一お宝音源”を収録したCD)
  • 「ワークスI - CM」 (2002年
  • 「ワークスⅡ - TV/Inst」 (2002年
  • /04」 (2004年
  • /05」 (2005年

TVなどのサウンド・トラック編集

  • 「ピーチ・ボーイ -桃太郎-」(Peach Boy - Momotaro - 1992年)※童話「桃太郎」の英語朗読(シガニー・ウィーバー)のバックに流れる音楽を担当
  • 「ワイルド・パームス」(Wild Palms, 1992年)※アメリカのテレビドラマのサウンドトラック。
  • 「L.O.L」(Lack of Love, 2000年)※ドリームキャストのゲーム「Lack of Love」の音楽。坂本はゲーム自体のプロデュースも行っている。
  • 「変革の世紀」(Henkaku No Seiki - Changing Century, 2002年)※NHKの同名番組のテーマ曲。

映画音楽編集

バンド・ユニット活動編集

YMOについてはイエロー・マジック・オーケストラの項を参照。
  • 「ディスアポイントメント・ハテルマ」(Disappointment - Hateruma, 土取利行+坂本龍一, 1976年
  • 「サマー・ナーヴス」(SUMMER NERVES, 坂本龍一&カクトウギ・セッション, 1979年
山下達郎大村憲司吉田美奈子小原礼などとのコラボレーション。

その他アーティストとのコラボレーション編集

  • 「誰も僕の絵を描けないだろう」(友部正人, 1975年
  • 「物語のようにふるさとは遠い」(富岡多恵子, 1976年
  • 「終曲/うらはら」(Phew, 1980年)※シングル
  • 「な・い・し・ょのエンペラーマジック」(山崎春美が率いたユニット「TACO」とのコラボレーションでアルバム「TACO」に収録, 1983年
  • 「VOLTEX OF LOVE」(小室哲哉とのコラボレーション, アルバム「avex dance matrix '95 Live TK DANCE CAMP」収録, 1995年
  • 「I WANNA BE DOWN」(m-flo loves 坂本龍一, アルバム「Astromantic」収録, 2004年

映像作品編集

提供曲 編集

他のアーティスト編集

CM曲編集

編曲 編集

その他編集

書籍編集

主著編集

  • 「本本堂未刊行録」
  • 「水牛楽団休業」
  • 「長電話」(高橋悠治+坂本龍一著、1984年
  • 「音楽機械論」(吉本隆明との共著、1986年
  • 「EV.Café」(村上龍との共著、1989年
  • 「モニカ」(村上龍との共著)
  • 「友よ、また逢おう」(村上龍との共著)
  • 「反定義」(辺見庸との共著)
  • 「SELDOM‐ILLEGAL―時には、違法」(1989年
  • 「少年とアフリカ――音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話――」(天童荒太との共著、2001年
  • 「非戦」(共著、2001年

監修・聞き書き等編集

  • 「気分転換法77」(サワグチ・サイキック・センター著、坂本龍一監修、1987年
  • 「テクノドン」(後藤繁雄編・著、1993年
  • 「skmt」(後藤繁雄著、1999年
  • 「未来派2009」(坂本龍一・細川周平監修)
  • 「伝説の編集者坂本一亀とその時代」(田邊園子、2003年
  • 「坂本龍一・全仕事」(山下邦彦編、1991年
  • 「坂本龍一・音楽史」(山下邦彦編、1993年
  • 「楕円とガイコツ」(山下邦彦著、2000年
  • 「エロコト」(編集長:坂本龍一、ソトコト2006年11月号増刊)

出演 編集

俳優としての出演作品 編集

映画 編集

CM 編集

ミュージック・ビデオ 編集

TV・ラジオ 編集

コンサート 編集

関連項目・人物編集

外部リンク 編集

出典編集

  1. Ryuichi Sakamoto PLAYING THE PIANO /05 2005年12月9日オーチャードホールにて
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